泰平寺
泰平寺は薩摩川内市 (日本)にあります。寺院のカテゴリで注目されており、評価は6.1です。詳細はこちらをご覧ください。
の特徴とサービス: 泰平寺
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顧客レビュー
泰平寺 評価は 3.8 ~から 5 に基づいて 56 レビュー Googleで
九州統一目前だった戦上手の島津家が、20万もの大軍を動員した豊臣秀吉に対し、遂にこの泰平寺で降伏をし、和睦の儀が結ばれた歴史的な場所に、心が震わされます‼️ 豊臣秀吉は、薩摩の地に流れる肥沃な田園地帯である川内川を圧える事で、遂に島津家の戦意を挫かせたのかな… 個人的には、島津家をリスペクトしているので、忸怩たる想いもありますが、その後の島津家の豊臣家から徳川家への立ち回り方含め、非常に関心があります‼️ そして、明治維新に繋がっていく… ロマンがあるな〜 そんな歴史的な泰平寺が、かなり老朽化している様に見えます 歴史を今に伝える泰平寺 永くこの地を保存して頂きたいと切に願います
薩摩川内市の一部の歴史を知ることの出来る大切なお寺✨この地に豊臣秀吉が陣を組んで滞在したのかと思うと感動✨住職様はお優しい方で日曜日のお忙しい中、御朱印をお受けくださりました。本当にありがとうございました
宗派とかそういうのは分からないんですが、ここは歴史上で凄く意味を持つお寺さんです。 豊臣秀吉が休止制圧のためにわざわざ京から出向いてきて、陣を設けた場所です。 歴史には史実とは違うことが多く伝わってますが、豊臣秀吉が泰平寺に来たことは史実だそうです。 そんなお寺の住職さんは、とてもいい話しやすい方でいろいろな知識、見解を持たれている方と感じ取りました。 駐車場もあります。 川内を訪れる際には、立ち寄ってみられることをお勧め出来るお寺さんです。
かなり古い泰平寺ですね。何とかして残したい建物です。此のままでは 朽果てるのを見ているしか方法はないんでしょうか 本当に残念です。 建物の骨組みが残れぱまた再生出来ますが 問題は予算ですね。 クラウドファンディングが出来たら 最高ですけどね 崩れる前に瓦を下ろして骨組みを完璧に補強して悪い箇所は取り替え新しいく屋根瓦を本葺きにしたら 立派な泰平寺が想像出来ます 本体が残っていたら歴史が引き継がれます。瓦がズレて腐る前に何とかならんかな?辛いですね
昔は、中心的なお寺だったようです。豊臣秀吉と島津との橋渡しとなった場所で、ここの住職が仲介したようです。現在は、寂れた感じです。御朱印あります。
聖徳太子像を観に行きました。 写真を撮りましたので 是非観てください。 日本の歴史を学べました。 ありがとうございました。
薩摩川内市と言えば、歴史ファンにとって見逃せないのは、豊臣・島津の和睦の地であるという事です。 秀吉と和睦した寺の名前が泰平寺とは、不思議な巡りあわせでした。 後に抜き書きする創建の由緒を見る限り、元明天皇が天下泰平を願って創建したとの事で、元々泰平寺という寺名だったのでしょう。 また、室町時代に足利尊氏が建立させた「一国一基の塔婆」とは、全国にお寺を設けて鎮護国家を図った聖武天皇の国分寺に倣って南北朝の争乱を仏の力で収めようとした彼の涙ぐましい努力によるもので、東京でも分倍河原の高安寺が尊氏版の国分寺として再興されたお寺として残されています。 このように泰平寺は元明天王や足利尊氏の願いが結実して、豊臣と島津を和睦させた素晴らしいご利益があるお寺となります。 しかしながら、豊臣に降りた島津氏の心境は複雑だったに違いありません。 九州全土を手にしかけていたのに、一度は破った大友氏の手引きで海を渡った秀吉により、南九州に押し込められることになったのですから。 後年、秀吉の朝鮮出兵に対して島津家中の梅北国兼が加藤清正や小西行長が不在の八代市佐敷で反乱を起こす梅北一揆が起きていますが、一揆鎮圧後豊臣川の命令で島津家当主義久の弟の島津歳久は切腹をしています。また、当時明と貿易していた島津家には明軍を鹿児島に上陸させ、連合軍で名護屋城にいる秀吉の首を取る計画もあったとか。 関ケ原では島津は西軍に属しましたが、これも島津義弘が本来は東軍に味方するために伏見城を訪れたところ、捨て石になる事が決まっていた鳥居元忠はこれを拒否、行き場をなくした島津義弘はやむなく西軍側に着いたのでした。 南九州地域は歴史的に複雑で、中央に対して反骨精神や独立心が強い地域です。 鹿児島中央駅からほど近い『鹿児島市維新ふるさと館』では、君が代の元の歌は薩摩にある事を誇らかに謳い上げ、近代日本を自分たちが作った自負を感じさせられます。 しかし、同時に彼らは熊襲の末裔であります。 霧島氏の隼人資料館では、朝廷から征伐された反乱についてしっかりと展示がされています。 熊襲の首長である『弥五郎どん』という巨人像を祀るお祭りも鹿児島県曽於市大隅町、宮崎県都城市山之口町や、宮崎県日南市飫肥に伝わっています。 都城地区には、征伐された熊襲を面白おかしく伝える熊襲踊りが伝統芸能として伝わっています。 宮崎県西都市には、景行天皇が熊襲征伐のために遣わした大きな太刀が奉納されています。 また、律令時代に日本の各地を国として分けましたが、当初南九州は日向国一国だけでした。 ところが、彼らは朝廷に従わず、当地をしやすくするために薩摩・大隅・日向の三か国に朝廷は分断したのです。 少々戦国や安土・桃山よりも古いお話になりましたが、これだけの伝説や祭祀が今に至るまで伝わっている事こそが、この地域の独自性を示すものではないか、と私は思っています。 後述する宥印法印の堂々たる態度もまた、この地方ならではの薩摩隼人らしいもので、なかなか感じ入りました。 [薩摩川内市指定文化財 泰平寺住僧墓] 泰平寺は、薩摩の国分寺と同様に、本市(薩摩川内市)にあって、歴史的に由緒のある寺院です。 和銅元年(708年)、元明天王の勅願寺として、天下泰平、万民安楽を願って薬師如来を本尊として創建されたとされています。室町時代の暦応2年(1339年)には、足利尊氏の命で、「一国一基の塔婆」が建立され、戦国期の享禄年間(1528~1531)に、宥海法印により真言宗大乗院の末寺として再建開山されました。 その昔、境内は極めて広大であったとされていますが、今では大部分が墓地になっています。 天正15年(1587)豊臣秀吉の薩摩信仰の際、当寺が豊臣軍の本営となり、秀吉と島津義久が、当時の泰平寺住職宥印法印の斡旋で和睦した話は有名です。昭和42年(1967年)に和睦石と宥印法印の墓は、市の文化財に指定されました。 泰平寺の資料等は、寛政7年(1795年)の大火で焼失しましたが、江戸時代までの歴代住職の墓20数機は、大きい物は高さ240センチメートルもある五輪塔や宝塔的五輪塔から宝篋印塔、板碑、さらに梵字入りの供養塔などが見られ、これらにわずかにその歴史の跡が残されています。 [薩摩川内市指定文化財 宥印法印の墓] 天正15年(1587年)豊臣秀吉の薩摩侵攻の際に、豊臣軍の本営となったのが泰平寺で、その時の住職が宥印法印です。 宥印法印は、儒学にも通じた剛毅な性格の名僧で、豊臣軍の使者が、寺の明け渡しを要求したところ、「住職は寺と運命を共にするもの。一歩たりとも退く気はない。」と答え、寺の明け渡しを拒否した。これを聞いた秀吉が、その態度に感心して、礼をもって再度申し入れたところ、「兵を恐れて逃げたとあれば恥になるから、退去する寺を与えよ」と答えた。宥印法印は、現在の中郷1丁目の宅満寺(たくまじ)に移りましたが、兵を全く恐れる様子もなく、毎朝泰平寺に通い読経に勤め、その姿に皆感心したそうです。 また宥印法印は、島津義久と豊臣秀吉との和議の斡旋にも努力し、その功に対し、豊臣秀吉から刀や茶碗が贈られたそうです。 宥印法印の墓は、宝塔的五輪塔で、高さは1.76メートルで、天正19年(1591年)の造立です。
~に関する情報 泰平寺
住所
泰平寺 に位置しています 日本、〒895-0076 鹿児島県薩摩川内市大小路町48−37 泰平寺
電話
電話番号は 泰平寺 は +81 996-22-4593
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