武田八幡宮
顧客レビュー
武田八幡宮 評価は 4.1 ~から 5 に基づいて 347 レビュー Googleで
甲斐武田家発祥の神社だそうです。 山の中腹にあり、三ノ鳥居(明神鳥居)からの展望は良いです。 大寒を過ぎた週末の朝に行きましたら、人が全く居らず、静かに参拝出来ました。 御祭神は 武田武大神(タケダタケノオオカミ) 誉田別命(ホンダワケノミコト) 足仲津彦命(タラシナカツヒコノミコト) 武の神 息長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト) 安産の神 境内は隋神門、神楽殿、拝殿、本殿。 ペット守なるものがありました。
北条夫人の願文が面白い。 きみょうちょうらい、で始まるものの、どこかお姫様口調を感じさせる。後日を思うと、切なくなるのだが。 勝頼さんは愛される人物だったのだと、願文は伝えている。 本殿横の神木が見える位置から、社の鬼面を拝むといいらしい。御利益倍増の裏ワザとか。訪12初
武田八幡宮のあるあたりは日本武尊の子の武田王(たけだのきみ)が開墾した土地とされていて、ゆえに武田郷と呼ばれていました。八幡太郎義家の末弟たる新羅三郎義光の子のうち武田郷に土着した義清は武田姓を名乗り、甲斐源氏武田氏の祖となります。つまるところ何が言いたいかと言うと、武田氏の故地にあるから武田八幡宮なのではなく、もともとあった武田八幡宮を氏神として再興したのが武田氏であったわけです。 本殿は武田晴信(信玄)による再建で、国の重要文化財に指定されています。本殿以外の社殿も古色蒼然としていて見ごたえがあります。境内摂社の為朝神社には源為朝の立派な神像が奉納されています。武田八幡宮の授与所では為朝神社の見開き御朱印も頒布しています。 近くには観桜期には大勢の観光客が訪れる「わに塚の桜」があって、武田八幡宮の駐車場も期間限定で解放されます。わに塚を武田王の墳墓とする伝承もあるようです。さらに足をのばせば武田氏最後の城となった新府城址があって、こちらも見ごたえは十分です。
御朱印頂けます 里山地域の端に大きな大木多数あり神社の空間が圧倒的です
山梨県韮崎市「武田八幡宮」 御祭神:誉田別命 足仲津彦命 息長足姫命 武田武大神 創建年:822年(弘仁13年) 住所:山梨県韮崎市神山町北宮地1185 参拝当日は塩崎駅から徒歩で向かいましたが 神社前の坂がきつかった思い出。 こちらの神社は甲斐武田氏の氏神様という事 で各年代の武田家の庇護厚く。ここでも弘法 大師が関わりますか!夢の中で八幡大菩薩が 武田郷に現れたとの事で神祠を祀ったのが始 まりと。 立派な楼門を潜ると階段があり舞殿が、更に 階段を登ると拝殿へ。本殿は元国宝の現在は 国の重文♫拝殿から南に行くと摂社の若八幡 宮。更に南に行くと末社の為朝神社が。中に は大きな「源為朝」像が安置されております♫ 参拝当日は秋の大例祭が行われており奉納の舞 を暫く観させてもらいました。帰りに甘酒をい ただきました〜♫タイミング良かったです♫
曇天の夕方16時に。この時間帯は避けたいところでしたが少しだけ寄らせてもらいました。 16時がおわりのようで社務所も終い支度されていました。誰もいない境内はちょっと怖い感じですね また快晴の朝一あたりに行きたいと思います。 ️は社務所の左手におよそ20台位可。
弘仁13(822)宇佐神宮または石清水八幡宮の分霊を勅命によって勧請したのが武田八幡宮の始まりです。 また、空海の夢の中で八幡大菩薩が武田郷に出現したため神祠を構えたのを起源ともいわれます。 武田とは古くからのこの地の名で、その起源は第11代垂仁天皇の御子・日本武尊の子にあたる武田王(たけだのきみ)がこの地に御殿を設けたことという逸話になります。 武田王は御殿の北東の祠を館内に移して祀ったのが武田武大神の起源で、現在の武田八幡宮にあたり、御殿は南西にあったといわれ、武田王が薨去して葬られたところは王仁塚と呼ばれ、現在のわに塚桜が咲き誇っている地です。 第56代清和天皇の頃に奉幣と社領の寄進が行なわれ、武田信義が武田八幡宮を氏神とし、社頭の再建などを行ないました。 武田信義は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で甲斐源氏4代当主、武田氏初代当主です。 大治3年(1128)8月15日に生まれ、13歳で武田八幡宮にて元服しこれ以来、武田八幡神社は甲斐武田氏の氏神となりました。 治承4年(1180)4月頃、以仁王の令旨を賜り、8月下旬に挙兵したといわれます。 富士川の戦いの直後や平氏の北陸出兵の際の追討宣旨の追討対象者に記され朝廷からも留意されるべき人物であった。 東国では源頼朝、武田信義、源義仲が武家の棟梁として並立した時期が続き、源頼朝が他家の排斥に乗り出しました。 源義仲と源頼朝が対立すると、信義や甲斐源氏は頼朝と協調路線を図り、武田軍は源範頼、源義経とともに義仲の追討、一ノ谷の戦い、壇ノ浦の戦い等に参加しました。 源義仲が滅びると源頼朝の次の標的は甲斐源氏率いる武田信義となりました。 元暦元年(1184)4月24日、武田信義の子・一条忠頼が鎌倉の宴席で暗殺され、その後、頼朝は甲斐・信濃に出兵し、頼朝らと同格だった甲斐源氏は鎌倉殿の御家人となりました。 文治2年(1186)3月9日、享年59で病没したといわれていますが、その詳細は不明で、武田八幡宮近くの願成寺(韮崎市)に墓があります。 天文10年12月23日(1542年1月19日)に武田信玄は武田八幡宮を再建したといいます。 天正10年2月19日(1582年3月23日)、織田信長の甲州征伐に際し、武田勝頼の妻・北条夫人が勝頼の武運を祈って祈願文を捧げたといわれ、この祈願文は現在、県指定の有形文化財となっています。
~に関する情報 武田八幡宮
住所
武田八幡宮 に位置しています 日本、〒407-0042 山梨県韮崎市神山町北宮地1185 武田八幡宮
電話
電話番号は 武田八幡宮 は +81 551-33-9370
ウェブサイト
ウェブサイトの 武田八幡宮 は takedahachimanguu.com
