源頼家の墓
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源頼家の墓 評価は 3.9 ~から 5 に基づいて 83 レビュー Googleで
源頼朝の息子でありながら、頼朝の猜疑心から修善寺の地に幽閉状態だった頼家、最後には暗殺され非業の死を遂げます。すぐ近くには頼朝の妻であり頼家の母である北条政子が頼家の菩提を弔うために建てた「指月殿」もあります。思わず、手を合わせてしまいます。修善寺観光協会の説明を転載します。「指月殿境内に頼家の墓があります。父頼朝の後を継いで、18歳で鎌倉幕府の二代将軍になった頼家は、やがて政争に巻き込まれ修禅寺に幽閉された後、北条時政の手により23歳という若さで、当時修禅寺門前の虎溪橋際にあった筥湯で暗殺されました。」
【 2024/10/27(日)訪問 】 静岡県伊豆市の修善寺にある、鎌倉幕府二代将軍「源頼家の墓 The grave of Minamoto no Yoriie」です。 正治(しょうじ)元年(1199)に父・頼朝(よりとも)の後を継いで18歳で鎌倉幕府二代将軍となった頼家(よりいえ)は、父の没後に専横(せんおう→わがまま勝手に振る舞うこと)になった北条氏(ほうじょうし)を抑えて幕府の基礎作りに懸命でしたが、大きく揺れ動く時流と、醜い駆け引きに終始する政争に敗れ、在位わずか6年でこの修善寺に流され、元久(げんきゅう)元年(1204)祖父・北条時政(ほうじょう ときまさ)の手で入浴中に暗殺されました(享年23歳)。 歌舞伎の演目「修禅寺物語(しゅぜんじものがたり)」は、こうした政治的背景の上に配所(はいしょ→罪を得て流された場所のこと)の若き将軍・頼家と、面作り師・夜叉王(やしゃおう)を中心に、それにまつわるロマンスを綴ったものとのことです。 手前の碑は江戸時代:元禄16年(1704)に頼家の500周忌にあたって、時の修禅寺住職:筏山智船和尚(ばっさんちせんおしょう)が建てた供養塔で、お墓 はその裏側にある小さな五輪石塔です。 ちなみに、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)の死後は、北条氏が執権(しっけん)の地位を占め、幕府の実権を握って行った政治体制「執権政治(しっけんせいじ)」という形が取られ、実質的に北条氏が鎌倉幕府を牛耳っていました。2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見た方はご存知だと思いますが。 源頼家公のお墓 の左方向には、頼家の家臣「十三士(じゅうさんし)の墓」が、右方向には母・北条政子が頼家の冥福を祈る為に建てた「指月殿(しげつでん)」という釈迦如来坐像が納められたお堂があります。※指月殿は伊豆最古の木造建築といわれているそうです。 鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡(あづまかがみ)」には、頼家が暗殺された6日後に、頼家の家臣らが謀反(むほん)を企てたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行親(そうしゅうかなくぼたろうゆきちか)らに殺されたことが記されているそうです✏️ この墓 は、その頼家の家臣13名の墓と伝えられています。 他の方のクチコミにもありますが、この「十三士の墓」は「鎌倉殿の13人」の「合議制の13人」とは違い、頼家が自分の側近とした13名で、家臣の名前は不明とのことです。 少し離れた高台には、源範頼(みなもとののりより)公のお墓 もあります。少し坂を登りますが、徒歩圏内 ですので、そちらも訪れてみて下さい。 範頼は源義家(みなもとのよしいえ)の第六子で、頼朝の弟に当たります。 親子、兄弟をも疑わなければならなかった鎌倉時代、兄・頼朝の為に最善を尽くした範頼が、最終的に謀反を疑われ、自害に追い込まれてしまうなんて… きっと無念だったことと思います なんとも悲しい時代だったんだなと… 鎌倉殿の13人を見てから 、ずっと気になっていた修善寺(修禅寺、頼家・範頼のお墓 )を訪れることができ&実際に訪れたことで色々なことを知れて良かったです。
源頼家は鎌倉幕府第2代将軍で、父が源頼朝、母が北条政子です。頼朝は八重姫(伊豆配流中の頼朝の監視役、伊東祐親の娘)との間に長男を設けましたが早世しており、頼家が嫡子となっています。 頼家は18歳で第2代鎌倉殿(源氏の頭領と言う意味)となります。更に22才で征夷大将軍(鎌倉幕府第2代将軍)になりました。そのころから北条・比企・梶原・和田などによる「十三人の合議制」がしかれますが、徐々に北条家の勢力が増してゆきます。1203年9月、比企能員の失脚に伴い源頼家は鎌倉殿から追い落とされ、修禅寺に幽閉されます。そして1204年7月18日、北条氏によって配流先の修善寺で殺害されました、享年23歳。 よくわからないのは、頼家が母親の実家「北条家」によって殺されたということです。政子の死去は「1225年8月16日」ですから、頼家が殺された時点ではまだ健在だったはずです。しかも第3代将軍実朝も政子の実子であり、実朝を暗殺したのは頼家の子公卿(つまり政子の孫)なのです。そして公卿は誅され、残っていた頼朝の係累も殺されます。こう考えると、政子は頼朝の「血」を排除したがったのではと疑いたくなります……。でもそれは政子の利益になったんでしょうか……?私にはわかりません。 もしかすると八重姫がらみの、ただのjealousy だったのかもしれませんが.........貴方はどうお考えになりますか? 2025.1.19
静岡県伊豆市は修善寺に有ります「源頼家の墓」です。 幽閉された「修禅寺」の真向かい辺りの高台に有ります。 武衛•源頼朝亡きあと嫡男の源頼家は二代将軍に就きますが、御家人達の権力闘争に巻き込まれ直ぐに将軍職を剥奪され、ここ修禅寺に幽閉されました。その後は祖父•北条時政の手の者によって暗殺されたとされます。 母•北条政子や祖父•北条時政に見放され、そして身内に暗殺されるという、非常に不運な生涯でした。なぜ?母親や祖父からこの様な仕打ちを受けたのでしょうか?普通は血の繋がる家族とはこの様な事は無いと思いますが… 第一には権力闘争(北条氏と権力を二分した比企氏に近すぎたとか)も有りますが、二代目特有の傲慢な振る舞いが目立ったともされます。 (頼朝時代の重臣御家人の子の妾を、無理やりに自分の妾として所望、略奪しようとし、更にそれに憤慨した頼朝の重臣を成敗しようとした等々)なのでトップに立つ器では無いと、母と祖父は判断したのですかね。 政には意欲的な様ですが…武衛•頼朝の様に、回りを上手く立てるという事が出来なかったのでしょうかね…。分かりませんが。 「吾妻鏡」によると頼家と比企氏が北条時政の討伐の話し合いをしているのを、北条政子に聞かれてしまい…政子は北条時政に知らせ、そして北条氏は先手を取って比企氏を滅ぼしたと記されています。(もし…この記述が本当ならば…北条氏の正当防衛とも言えますが…) それに伴い頼家は幽閉、暗殺へという経緯に流れて行きました。 母•政子はきっと頼家の命だけは奪わずに幽閉のみにしたかった事でしょう…しかし祖父•時政から権力を削ぎ落とされない為には、頼家(と頼家の子•一幡)を亡き者にするは是非にあらずと説き伏せられたのでしょうか…悲しい時代です。 因みに「鎌倉殿の13人」で御馴染みの「13人の合議制」は、この頼家の未熟さをリカバリーする為に設けられたと言います。 源頼朝公の子として産まれてしまい…時代の波に翻弄された不運の将軍•源頼家公に日本酒をお供えして参りました。 源頼家の墓の横には、彼が信頼した「重臣十三士の墓」も有り、主君•源頼家に寄り添う様に、ひっそりと立っていました。 (因みに混同しない様に、この十三士は先に話した「合議制の13人」とは違います。若い世代から自分の側近とした者達13人でしょう。名前などは不明との事です) 源頼家の墓その家臣達の墓には、訪れる方皆が静かに合掌していましたね。 また墓所の横には母•北条政子が頼家の冥福を祈る為に建てた「指月殿」という仏様が納められたお堂が有りました。当時の物の仏像を見る事が出来ます。素晴らしい。 源頼家公墓所、何かお供え物でも持って是非にブラリと見学してみましょう。
駐車場はありませんので近くの民間駐車場に停めます 500円くらいです 安いところは2時間300円がありました 頼家の墓は裏側にあるので横から見てください!
修善寺温泉街から奥へ向い真中に流れる桂川から左側へ少し登った山際に有ります、やや急で手摺有っても注意。 説明板に拠ると正面の碑は1704年に建てられたものて本来の墓石は裏の小さな2基の五輪石塔と言っても3つあり検索すると真中の小さい物で両側の少し大き目な物は妻若狭局、子の一幡の物とか。 敷地の左手に13士の墓・元の場所から此方に移動、右手に指月殿手前に説明板とお伺い石、奥へ登ると源義経像とか有るも可也登ります。 1199年父頼朝の死後18で家督相続鎌倉幕府2代目将軍となるも修善寺に流され 1204年北条氏の追手により入浴中暗殺享年23満21 wiki等読むと最近では様々な失政は北条氏に拠る吾妻鏡の曲筆に拠るもので、特に個人的な武芸に優れていたのは間違いないものの 既に御家人達は源頼朝の様な独裁的な将軍でなく都合の良く意に沿う将軍を求めていた、実際の財産等は御家人側に有ったという事で修善寺温泉の観光地としての賑が昔から廃れつつある所が余計に寂しく感じました。
ちょっと道がわからなくて、民家の間から抜けてこちらに着きました。横階段から山を登って、もう一つのお墓に行けるのですが、鉢に付きまとわれてたどり着くことができませんでした。
~に関する情報 源頼家の墓
住所
源頼家の墓 に位置しています 日本、〒410-2416 静岡県伊豆市修善寺935 源頼家の墓
ウェブサイト
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