静寛院宮宝塔

📍 納骨堂 の 港区

静寛院宮宝塔
5.4

静寛院宮宝塔は港区 (日本)にあります。納骨堂のカテゴリで注目されており、評価は5.4です。詳細はこちらをご覧ください。

静寛院宮宝塔22名中14位です 納骨堂 の 港区

顧客レビュー

★★★★★
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静寛院宮宝塔 評価は 4.2 ~から 5 に基づいて 10 レビュー Googleで

高橋正和

十四代将軍 徳川家茂の御台所である和宮内親王の墓塔です。許婚がいたにも関わらず京都から江戸へ、大奥での篤姫との軋轢、そして共に婚家のために奔走する日々と波乱万丈の一生だった方でもあります。 若くして亡くなりましたが、京都にも戻ることもなく、お墓は増上寺にあり、その傍らには、十四代将軍 徳川家茂のお墓があります。 ちょうど東京博物館では、特別展「江戸☆大奥」が開催されており、天璋院宛に季節の挨拶として書かれた和宮の文が公開されています。ちらし文字で書かれた美しい文で、優しい人柄と深い教養を感じさせられます。

高橋正和 ☆ 5/5
N

増上寺にある静寛院和宮さまの宝塔。隣には夫14代徳川家征夷大将軍徳川家茂の宝塔がある。和宮様の宝塔は青銅製で旦那様より立派。和宮様の強い意志で夫が眠る増上寺に埋葬された。

N ☆ 5/5
高砂あさっぴー

増上寺の徳川将軍家墓所にある十四代将軍徳川家茂の御台所である静寛院宮こと和宮内親王のお墓。 幕末期に権威を取り戻りたい幕府とその幕府に攘夷を迫りたい朝廷双方の思惑により行われた将軍家茂と孝明天皇の妹である和宮の婚姻(公武合体)。和宮は許嫁の有栖川宮親王がいましたが泣く泣く江戸へ輿入れしたそうです。家茂との仲は良かったと言われていますが家茂は第二次長州征討で上洛中に病没。大政奉還後に朝廷を担ぎ上げた薩長を中心とした新政府軍が江戸に進軍すると和宮は朝廷に手紙を送り江戸総攻撃を止めるよう働きかけた人物でもあります。 家茂の宝塔の隣に建てられた和宮の宝塔は青銅製で家茂の宝塔と同じ形をしています。将軍家霊廟が空襲で焼失した際現在の墓所に移す際遺体の調査が行われ和宮の遺体には烏帽子に装束を着た男性の写真が共に埋葬されていましたが調査の際に陽の光に当たり絵は消えてしまったそうです。夫の家茂とも許嫁の有栖川宮親王とも言われていますが真実を知るのは和宮だけなのかもしれません。 徳川将軍家墓所の受付では和宮の御朱印を頂くことが出来ます。

高砂あさっぴー ☆ 5/5
ひまわり娘

徳川家茂の正室の和宮のお墓です。京都の公家のお姫様で恋人がいましたが徳川家と政略結婚が決まり悲しい顔をしてました 。江戸には行きたくないと言ってました。無理やり江戸城に行く事となりました。大奥で待ってたのは篤姫と言う女性からの教育でした。公家のお姫様は足袋をはくのも許可が必要で可哀想でした。江戸城を無血で開放する時に箱根に冬至に行き過ごしてたが病で33才で亡くなったそうです。

ひまわり娘 ☆ 4/5
ぱぴやす

静寛院和宮は仁孝天皇第8皇女。有栖川宮と婚約していたにもかかわらず公武合体の政略結婚で家茂と結婚させられました。没後遺体を京都へ戻すよう沙汰があったのに本人の遺言で家茂と並んで増上寺に葬られたのですがこれが大間違い。後に戦災にあって荒廃した墓地を徳川宗家が売り払ったため墓はあばかれ和宮の遺骨も大衆にさらされ調査対象になってしまったのです。有名な桂昌院はじめ歴代将軍の夫人、側室、子女等数十人分がまとめてひとつの宝塔に押し込められたのに対し元皇族だけあって改葬前の一人分の宝塔(菊の紋章つき)に納められましたが、それにしてもひどい扱いのように思われます

ぱぴやす ☆ 1/5
Ka- Sa-

かつての増上寺は歴代徳川将軍の霊廟がありましたが、戦災により焼失しました。この地に葬られていた徳川家の人々は昭和33年に改葬されました。 天皇家より降嫁された和宮親子内親王もこの地に葬られていました。発掘調査時に1枚の烏帽子をかぶった男性の写真が副葬品として発見されましたが保管状況が悪く、翌日にはガラス板になってしまいました。そこに写っていたのが夫である家茂なのか、それともかつての婚約者なのか、永遠の謎です。

Ka- Sa- ☆ 4/5
渡辺直治

旧文昭院霊廟にあった家茂正室和宮の宝塔です。

渡辺直治 ☆ 5/5

~に関する情報 静寛院宮宝塔

住所

静寛院宮宝塔 に位置しています 日本、〒105-0011 東京都港区芝公園4丁目7−35 静寛院宮宝塔

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