大久保利通の墓
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薩摩出身の大久保利通は倒幕後に明治政府の一員として活躍し、岩倉使節団で海外を見学した後に主に内務省で活躍し、政権を掌握しました。 薩摩出身で数少ない1人でしたが、士族に対して冷たかった方針に対して不満を持った元武士が反逆し、馬に乗って移動していた大久保利通は紀尾井坂で暗殺されました。 短い人生でしたが、開国して混乱していた日本を第一線で率いて近代化を進めた立役者であり、お墓もとんでもなく大きいです。 中央にある墓は紀尾井坂の襲撃地にある記念碑と類似してます。 また、襲撃時に同時に殺された馬の墓もあります。
明治の元勲として夙に有名ではあるが、朋輩である西郷隆盛と比べると評価が異様に低い。西郷が日本的領袖の理想として慕われるのに対し、大久保は蛇蝎のごとく忌避されることもある。 南洲翁は人格者でもあり包容力の大きさは誰もが認めるところではあるが、大久保の実利能力と冷徹さが無ければ明治政府は座礁の憂き目に遭っていたのではないだろうか。 西郷も大久保もおなじコインの表と裏であり、双方が助け合うことにより初めて日本が夜明けを迎えられたのではなかろうか。 今こそ、大久保のような人物が今の日本に必要なように感じられる。
立派な墓地で鳥居があるので神様として祀られているようだ。大久保利通は幕末から明治初期にかけて活躍した薩摩藩出身の政治家で、維新の三傑の一人。西郷隆盛とともに倒幕を進め、明治政府の樹立に大きく関わった。政府では主に内務卿として中央集権体制の確立、殖産興業、地租改正、警察制度の整備などを主導し、日本の近代国家化を推し進めた。征韓論をめぐって西郷と対立し、のちに西南戦争の原因の一つを生んだともされる。1878年、東京・紀尾井坂で不平士族によって暗殺され、47年の生涯を閉じた。
大久保利通という人物に相応しい趣を感じます。新政府の借金を個人で建て替えていたという逸話もある方であり、華美さや派手さのがない仕事一筋の人物らしさを感じます。 また、子煩悩の愛妻家という逸話もある大久保利通公らしく、奥様の満寿子さん、利和さん、利武さんも祀られていました。とは言え、三男の牧野 伸顕は当然別のお墓ですが、ご近所にお墓があります。 子供達が玄関に出迎え靴を脱がせようとして、勢いあまって後ろに転がるのを見て笑っていたとか、土曜日の家族との夕食を無上の楽しみとされていた大久保利通公らしいと思いました。お参りさせて頂きありがとうございます。
名所・名勝という言葉があるように、ここには名墓とという語をおくりたい。近代史でなじみの名が櫛比する青山墓地には、驚くほど巨大な墓標や広大な墓域も珍しくはないが、大久保利通の墓はその点では記録的というほどではない。 先の大震災以来、墓前に進められた石灯籠群が倒壊したままになっているのは痛ましい。それはここだけのことではなく他のビッグネームの墓でも、大震災以来10年を経た今もなお、石垣や燈籠が崩れたままだったり、甚だしいのは仰ぎ見るような墓塔があらぬ方角を向いてしまったままなのがある。立派な墓を建てるというのも、孫子の代に至っては考えものだ。 大久保の墓の立地は素晴らしい。何しろ墓地創設ほどなく暗殺されたのだから、「早い者勝ち」だ。今では樹木も茂っているから目立たないが、建墓当初はランドマークになったことだろう。 縦貫道から少し引っ込んだ墓域に達するまでの右側に、斎藤茂吉の一家の墓域もあったりして驚かされる。その突き当りに青銅製の立派な碑が屹立し、左に折れた奥に主人公の墓がある。 まだ顕官の墓のスタイルが確立する以前の(いやその先駆だったのだ)もので、亀の上に 贈右大臣正二位大久保公墓 と刻まれている(亀の上というのは、漢代あたりの墓制の翻訳だろうか)。 大久保よりはるか後、大正の末近くに建てられた山縣有朋の墓碑は 元帥公爵山縣有朋墓 とされている。大久保は近代の諸制度が完備される以前に亡くなったのだ。だから右大臣という律令制の官職が冠せられている。 近代化の牽引車が古色蒼然たる装飾を施されているのは、こう言っては失礼に当たるが、面白い。大久保という人が過渡期の人だということを、このいしぶみが期せずして表現している。 さてこの墓域の白眉、いや墓地全体の随一は、先に触れた青銅製の碑だ。 大久保公神道碑という。これはシントーではなく、シンドーと発する。神社の神道に由来するものではなく、それこそ漢土の墓制に由来するものだからだ。 この立派な碑は、彼が非業に斃れて32年を隔てて明治43年に建てられた。 贈右大臣従一位大久保公神道碑 という篆額(碑のタイトル)は伏見宮。本文は「抹殺博士」の異名をとる重野安繹(この史学の泰斗も薩摩出身だ)の撰文、清書は日下部鳴鶴、明治の書家として当代随一と評された人だ(この人は彦根侯家中だったが、大久保の恩顧を得て彼の死まで官に仕えた)。 高さ十尺一寸(306㎝)、幅は正・背面が4尺7寸(142㎝)に側面3尺2寸(97㎝)、篆額のあるのが当然正面(第1面)で、時計回りに四面ビッシリ、堂々たる楷書でうずめられている。総字数は2,919に及ぶ。 日下部はこの建碑には斎戒沐浴して半歳をかけて当ったそうで、彼の令名にも傾けた労にも愧じない出来映えだ。後の者からすれば、明治という時代の赫々たる記念碑ともなっている。 彫心鏤骨というのはこの書のことをいうのだろう。一点一画もゆるがせにせず、それでいて温かみを湛えてもいる。 明治という時代は苛烈という印象が強いのだが、意外なヒューマニティを感じさせるのは、後に聖代と呼ばれることになる明治という時代の父親に対する敬慕の念が滲み出ているということか。まこと唐代楷書の傑作、九成宮醴泉銘にも劣らない。 文章も、頌徳碑の決まり通りではあるが調子が高い。それは 明治十一年五月十四日・・・大久保公薨于官 天子震悼 詔贈右大臣・・・ で始まる。古式通りやんごとなき辺りには改行・闕字を用いている。震悼という語は簡単だが、文のほぼ劈頭にこの語を見出せば、大久保暗殺に明治新政府が受けた衝撃の大きさが窺える。そして定石通りの出自の記述に続いて事績が語られる。それは幕末以来の有名人のオンパレードで、意外と生々しい。 文末には ・・・遺範永存継志纉緒俟乎後賢・・・ とある。大久保が渾身で灯した松明は、150年近く経ては絶えてしまったのだろうか。ぬ
霊園内で特に大きな墓地だと思います。 中央の南北の通りから斎藤茂吉の墓を右手に見ながら進むとあります。 参拝出来てよかったです。
大久保 利通は、日本の武士、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。 明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また「維新の十傑」の1人でもある。 初代内務卿を務めるなど、内閣制度発足前の明治政界のリーダーであった。 西郷と同じ下加治屋町出身と言われるが、本当は高麗町の出身である。
~に関する情報 大久保利通の墓
住所
大久保利通の墓 に位置しています 日本、〒107-0062 東京都港区南青山2丁目33−32−2 大久保利通の墓
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